5月に大野北公民館にて話し合いがもたれ相模原市剣道連盟が発足
初代 白井 太吉会長 就任
橋本、淵野辺、大沢の3支部で始まり、しばらくして小山が橋本から分離独立し4支部となる
5月に第1回市民選手権大会を開催
第1回各種団体剣道大会(後の支部対抗剣道大会)を開催
剣道スポーツ少年団発足
8月に第1回県外練成会を日光武徳殿にて実施
第1回武相地区剣道大会を開催
白井 太吉会長が近隣の各市剣道連盟に呼びかけて実現
第1回、第2回は相模原市で開催 第3回、第4回は大和市で開催
当初は各市が持ち回りで開催することになっていたが、負担が大きく第5回以降は相模原市で開催している
第1回スポーツ少年団武道大会(剣道)を実施
6月に創立30周年記念行事実施し、記念誌を発行
初代会長 白井太吉の功績を顕彰するため白井太吉杯を創設し、第1回白井杯剣道大会を30周年記念大会として実施
第1回基本錬成大会を開催
創立50周年事業のメインテーマを「輝け 武道の心」とした11月に創立50周年記念行事を実施し、記念誌を発行
相模原市剣道連盟が文部科学大臣表彰受賞
各種団体剣道大会を支部対抗剣道大会に改名して継続
年表
西暦 | 和暦 | 内容 |
---|---|---|
1952年 | S27年 | 11月に全日本剣道連盟が発足 |
1953年 | S28年 | 5月に大野北公民館にて話し合いがもたれ相模原市剣道連盟が発足 初代 白井 太吉会長 就任 橋本、淵野辺、大沢の3支部で始まり、しばらくして小山が橋本から分離独立し4支部となる |
1954年 | S29年 | 5月に第1回市民選手権大会を開催 |
1966年 | S41年 | 第1回各種団体剣道大会(後の支部対抗剣道大会)を開催 |
1968年 | S43年 | 剣道スポーツ少年団発足 |
1973年 | S48年 | 5月に創立20周年記念行事実施し、記念誌を発行 |
1975年 | S50年 | 8月に第1回県外練成会を日光武徳殿にて実施 |
1979年 | S54年 | 第1回武相地区剣道大会を開催 白井 太吉会長が近隣の各市剣道連盟に呼びかけて実現 第1回、第2回は相模原市で開催 第3回、第4回は大和市で開催 当初は各市が持ち回りで開催することになっていたが、負担が大きく第5回以降は相模原市で開催している |
1980年 | S55年 | 第2代 松尾 彬会長 就任 |
1981年 | S56年 | 第1回スポーツ少年団武道大会(剣道)を実施 |
1983年 | S58年 | 6月に創立30周年記念行事実施し、記念誌を発行 初代会長 白井太吉の功績を顕彰するため白井太吉杯を創設し、第1回白井杯剣道大会を30周年記念大会として実施 |
1987年 | S62年 | 第3代 茅 秋雄会長 就任 |
1993年 | H5年 | 創立40周年記念行事実施し、記念誌を発行 |
1999年 | H11年 | 第1回基本錬成大会を開催 |
2001年 | H13年 | 第4代 小山 禎一会長 就任 |
2003年 | H15年 | 創立50周年事業のメインテーマを「輝け 武道の心」とした11月に創立50周年記念行事を実施し、記念誌を発行 |
2007年 | H19年 | 第5代 萩原 征会長 就任 |
2009年 | H21年 | 相模原市剣道連盟が文部科学大臣表彰受賞 |
2011年 | H23年 | 第6代 藤井 泰一会長 就任 |
2013年 | H25年 | 創立60周年記念行事実施し、記念誌を発行 |
2015年 | H27年 | 第7代 井上 一彦会長 就任 |
2016年 | H28年 | 各種団体剣道大会を支部対抗剣道大会に改名して継続 |
2017年 | H29年 | 専門部組織として審判部を創設 |
2019年 | H31年 | 第8代 細谷 武夫会長 就任 |
2023年 | R5年 | 創立70周年事業のメインテーマを「始めよう 心を磨く 剣の道」とした 8月に創立70周年記念行事を実施し、記念誌を発行 |
相模原市剣道連盟発足の経緯
相模原市においては、いちはやく剣道が組み入れられ、第1回相模原町民体育祭の剣道大会が昭和27年11月に県立相原農蚕学校(現相原高校)の講堂で催されたのだ。それまで隠れるようにして個々に行われていた愛好者たちの剣道は、この大会を期に晴れて一堂に会することになった。
この日大会に出場したチームは大野北、橋本、田名、大沢、上溝、新磯、麻溝、大野中、大野南の9チームだった。そして三人団体戦の代表選手の中には、白井、北林、田中、安西、若林、木下などの各選手がいた。
誰、云うことなく、この大会を契機として、相模原に剣道の集まりを作ったらということになって、相模原市剣道連盟の発足の機運が盛り上がってきた。
昭和28年5月、この語らいが実現して大野北公民館南側の座敷で、剣道連盟は産声をあげ、会長に白井太吉、副会長に北林智、理事長に武井直矩を決め、理事には田中、安西、吉村、木下、松尾などがなった。 (創立50周年記念誌より)
初代会長 白井太吉の足跡
昭和元年に県立相原農蚕学校に入学すると、金子誠次郎先生から身体を張って剣道を教えこまれた。会長と剣道の出会いであった。
すでに、四年生には選手として対外試合に出場し、東京農大主催の農業学校の全国大会で優勝を果たした。二段で相原農蚕学校を卒業すると、好きな剣道で身を立てようと考え、上級学校には進まず、当時東京の神田にあり、一世の剣聖とうたわれた高野佐三郎範士の道場、修道学院に内弟子として入門することになった。
一日三回の激しい稽古が続いた。剣道で立つとしても学問を身につけなければならないと考え、昭和七年日本大学法科に入学した。大学の剣道部に入り、一年生のときからレギュラーで多くの試合に出場した。
こうして勉学のかたわら剣道一筋に打ち込んだし白井会長は、相模原で郵便局を開業している父から稼業を継ぐように勧められたが、それを拒んで市ヶ谷の刑務所に勤務することになった。
二十二歳のときだった。剣道ができ、月給が貰えるならばと入った刑務所が未決監であったので、その裁判の護送を担当させられ、仕事は忙しく責任は重かった。
剣道もしたい、勉強もしたい、若い会長はこの刑務所勤務を止めることを決心した。
一年半で警視庁に転出した。十二年すでに日華事変が起こり、社会は大きく変わりつつあった。十四年夏、警視庁の堀田先生のすすめで、助教試験を受け。見事パス、警察官に剣道を教えることになった。そして名実ともに剣道の道を歩き始めた。
しかし、十四年八月二十二日、臨時招集を受け、ノモンハン要員として兵役につくことになった。軍隊では兵卒でありながら将校に剣道を教え、剣道は身を助けた。
十七年、陸軍省令第一号として、作戦途中で外地から元隊に復し、もとの職場に復帰することになった。内地で働いた方がより国のためになるという処置だった。 十八年には、深川の平野署に勤務、助教になったが、内地も空襲が激しくなり、剣道どころではなかった。道場は焼けた店屋の米や缶詰の保管場になり、道場主はその保管人に変わっていた。深川で終戦をむかえ、その後マッカーサー司令部によって剣道は禁止になり、焼けだされたために、相模原の渕野辺の実家に帰り、そこから深川に通った。 その後、町田署に転勤、二十三年まで警視庁町田署に勤務し相模原の実家に帰り、父の郵便局を継ぐために警察の勤務を止め渕野辺の人となった。
白井会長は、相模原に落ちつくと、郵便局に勤務しながら、剣道を続け、剣道が復活すると、いち早く連盟を作り、初代会長になり、子供に剣道を教えることになった。社会体育の場における剣道を指導し、今日の隆盛の基を築いた。昭和五十五年帰らぬ人となった。
(創立30周年記念誌より)